プロフィール

氏名小川 剛司
ハンドルネームせにょ
生まれた年1970年代後半
性別男性
住んでいるところ東京近郊
職業中小企業診断士
趣味カラオケ、読書(推理小説等)、旅行、芸術鑑賞

知的奇心の芽生え。不思議に思ったことはなんでも確かめる謎の幼少期。

 1970年代後半北関東で次男として生まれる。生まれつき知的好奇心の塊で、幼少のころは、意味も分からず雑草をすりつぶして雑草青汁を作ってみたり、蟻の観察をしすぎて熱中症になるような子供でした。

知的好奇心を解決する読書に出会った小学校。

 小学校に入学すると、極端に背が小さくて(小学校6年で130cm)体育が苦手だったこともあり、2年ほどいじめられることを経験しました。なぜか音楽の成績だけはよかった(声量だけは大きかった)ので、演劇部に入り、何度か主役を演じることで、周りに認められいじめが止まりました。その間も知的好奇心は旺盛で、図書館に入りびたり、シートン動物紀やファーブル昆虫記を読み、夏休みの自由研究では、なぜか食べ物の腐敗を研究しました。このころ、江戸川乱歩の推理小説に出会いはまりました。

初恋、青春のはじまり、中学校3年間

 中学校に入学すると、成長期に入り急激に身長が伸びました(2年間で35cm)。相変わらず演劇部で役を演じるとともに、図書館で知的好奇心を満たす日々でした。またこのころ、初恋、はじめての彼女ができました。中学3年生、進路相談がありましたが、このころ趣味で漫画を書き、天野喜孝(ファイナルファンタジーのイラストレーター)が好きで、東京で行われる個展に行くほどでしたので、工業科の産業デザイン専攻のある高校に行きたいと訴えました。しかし、両親、担任、親戚から偏差値だけを見て「将来性がない」と猛反対を受け、進学コースのある普通科へ進学しました。今にして思えば、自分の知的好奇心を満たすのを邪魔されるという、最もひどい出来事でした。

もう二度と経験したくない。地獄の高校3年間。

 高校に入学すると、そこは私にとって地獄でした。皆様想像できますでしょうか?北関東の県立の進学校で男子校です。バイトもできず、部活もできず、彼女とも別れて、右を見ても左を見ても死んだ目をした男子しかいない灰色の3年間です。最も多感な青春の3年間を大学受験のためだけに捧げました。棒でなぐられるのが怖くて(赤点をとると教室の前に立たされて一人ずつ棒でなぐられる体罰が普通に行われてました)ただひたすら点数だけを追い求めました。とにかくつらかった覚えしかありませんでした。地獄の高校3年間で唯一の希望は「生物学」でした。生物部として、尾瀬沼や水産試験場等で様々な生物の不思議に触れることで、私の知的好奇心が満たされたのです。そんななか、高校3年生の進路相談で、もっと生物を研究したいと思い、農学部を希望しました。しかしまたしても、両親、担任、親戚から偏差値だけを見て「農業なんて将来性がない」と猛反対を受けました。しかし、今回は自分の知的好奇心を押し通し北関東の国立大学農学部を選びました。

人生最高の時。わくわくした大学4年間。

 大学に入学すると、大正解でした。遠方だったこともあり人生はじめての一人暮らしを開始しました。見るもの聞くものすべてが新鮮で、毎日がわくわくしてました。日本全国からいろいろな人がくる、かわいい女子がたくさんいる、授業は未来につながるような先端的な内容を学べる、知的好奇心の塊である私にとってまさに天国でした。サークルとして、英会話部、演劇部に所属し、他大学と交流する機会に恵まれ楽しく過ごしました。2年生になり、専門課程がはじまるとますます授業が面白くなり、バイオテクノロジーという未来につながる学問にのめりこんでいきました。4年生になり希望通りの研究室に所属し、さらに自ら手をあげて国立の研究機関に出向させてもらい卒業研究をしました。またこのころ、今の妻と出会い、付き合いだしました。

大きな挫折、トラウマとなった大学院中退。

 当時、もっと研究したいという思いから大学院試験にも合格し、わくわくしておりましたが、ここで事件が起きます。なんと、国の予算がなくなり研究チームが解散してしまいました。このまま研究を続けるなら、指導教官についていき関西に行くしかないと言われ、両親に相談したところ、経済的な問題(大学、大学院を通じて奨学金を借りていました。そのうえ大阪でさらに一人暮らしする費用は出せない。)から進学をあきらめざるを得ませんでした。大学院中退ですね。お金が原因でやりたいことができませんでした。これが一生残るトラウマとなります。

就職氷河期、お金に苦しみ悩んだ20代。

 さあ、いきなり就職活動開始です。翌年から奨学金の返済もはじまるので、のんびりはしてられません。時は就職氷河期ど真ん中。もう絶望しかありません。当時は1万通資料請求、1000通返事、1000社エントリー、100社書類選考、10社面接、1社内定という感じでした。そんななか、知的好奇心が別の方向「芝居の仕事」へと向きます。そこで、ずっと演劇をしていたこともあり、なぜか芸能プロダクションに経歴書を送りオーディションを受けたらなんと合格してしまいました。就職ではないですが、これを機会に上京しました。大学院の先輩が就職した受験予備校で塾講師の仕事を見つけなんとか食いつなぎます。

 しかし、その受験予備校はいわゆるブラック企業でした。合格保証といって高額な詐欺教材を売りつける仕事でした。半年後、その会社は倒産しました。職を失い途方に暮れていたころ、運命の出会いを果たします。六本木でハローワークが主催する合同就職説明会の会場で、「見たことあるロゴマークだ。あれ?学生時代愛用していた実験器具メーカーだ!」となりました。さっそく担当者の方と話すと、「君、〇〇さん(研究室の担当教授)のところの学生さんか!当社は20年前共同研究していたんだよ。さっそく社長に話しておくから。」一週間後、社長面接後、即採用となりました。しかも、大学院中退ですが、技術開発職で採用いただきました。それから3年間、知的好奇心を大いに満たしながら調べて研究して開発した結果、25歳でセミナー講師、特許出願、優秀社員賞という成果を得ました。芸能プロダクションでは、歌や芝居を習いライブをする等、公私ともに本当に幸せな3年間でした。
当時、従業員としては、充実しておりましたが、会社の経営が傾きつつあり、メインバンクから破綻懸念先として取り扱われてしまいました。不況期に、研究開発は最も最初にリストラされる部門です。私も例外ではなく、意にそぐわない長期出張を命じられあえなく退職しました。また、金銭的な理由から通っていた芸能プロダクションもやめざるを得ませんでした。

3年間で6回の転職を経験。人生観が大きく代わるきっかけとなった

 絶望のさなか、奨学金の返済が重くのしかかりすぐ就職先を探す必要がありました。しかし、当時、日本は失われた30年、年越し派遣村が話題になったころでした。当然正社員の求人などほぼない中、派遣社員で第2のキャリアをスタートしました。一方、世界的にドットコムバブルのど真ん中でした。Youtubeが創業し、インターネットが盛り上がりつつありました。バイオテクノロジー、芝居を離れ、知的好奇心を満たす先を探していた私は、未来につながるものとしてインターネット、動画に着目しキャリアを模索しました。そして、その後、約3年間で7社を点々とします。入る会社が次々とつぶれてしまったのです。その中には、企業規模としてはスタートアップから上場企業まで、雇用形態としては、正社員から派遣社員、アルバイトまで、職種としてはWEBディレクター、販売スタッフ、デザイナーまで経験しました。この経験を通じて、会社ってなんだろう?経営ってなんだろう?働くってなんだろう?という疑問がわきます。これが人生の大きな転機となりました。

一念発起。人生を取り戻した30代。

 このころ30代になり、自分の人生について真剣に考えはじめます。そこで、30代で4つの目標を掲げます。①病気を治し健康になる(20代のころずっとある持病に悩まされ続けました。)②借金(育英会の奨学金)をゼロにする(奨学金の返済に追われることで20代における不本意なキャリアにつながりました。)③付き合っている彼女にプロポーズする(交際10年を超えるが、私の職が不安定なためずっと結婚できずにいました。)④中小企業診断士に合格する(会社ってなんだろう?経営ってなんだろう?働くってなんだろう?という疑問に決着をつけたいと思いました。)努力した結果35歳ですべての目標を達成しました。

そして、未来へ向けた活動を決意した40代。

 今では、おかげさまで家族(娘二人、猫3匹)に恵まれ、首都圏にささやかながら小さな我が家を建てて幸せに暮らしています。金銭的にもかなり安定し余裕がでてきました。(住宅ローンやカーローン等借入金はありますが、家計上は資産超過となっています。)

 このブログは、こんな経験をしてきた私が、自分の知的好奇心の赴くままに、皆様の未来の物語につながる、ヒト、モノ、おカネ、情報について研究し、発信していきます。皆様の参考になれば幸いです。

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